
今年に入ってから流星話がたまたま身の回りに重なった。これを契機に、時代や分野を越えて流星というものに託されてきた思いというものを考えてみようと思う。千夜一夜には到底及ぶべくもないが、流星の第一夜は、先々月の京都南座での三月花形歌舞伎である。午前の部の演目は歌舞伎十八番の内「矢の根」と「鳴神」、そして「流星」であった。しかるべく所に生まれ育ち、日夜相応の稽古を積んで来られた若手役者の花の競演である。
この中の演目「流星」であるが、牽牛と織女がやっと逢えた七夕の夜、雷夫婦が喧嘩を始めたと流星が余計な御注進にやって来るという趣向である。坂東巳之助が、老若男女の鬼の角を戴いた四体の雷を踊り分けて、演目の山となる軽妙洒脱な舞踊をみせる。幕間に聴いたイヤホンガイドでは、流星は別名、よばひ星(婚ひ星、夜這ひ星)との説明があった。男が女の家に通う妻問婚の時代、よばひ渡る男のあくがれいずる魂が流星となるのである。流星は最後に、他星の蜜月に闖入しながらお邪魔虫の嫌味や臭みのかけらもなく、文字通り彗星の如く鮮やかな印象を見所に与えて、虚空遥かに消えて行った。
作品が残る芸術と異なり、演じる芸能は一期一会の燃焼である。同じ演者、演目であっても繰り返しではなく、その刹那、その場の芸はそれ限りである。生け花もまた、その花材との出会いはただ一度であり、たとえ会心の作であろうとも活けた作品は残らない。歌舞伎舞踊「流星」から頂いたキーイメージは、「後に残さず」の覚悟である。徒然草、第九十二段の「毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ(毎回弓を射る時には、この一本の矢を射損じることなく的中させるのだと思え。)」なのである。