
話題沸騰の映画『国宝』(監督:李相日監督、原作:吉田修一著『国宝』、歌舞伎指導・出演:四代目中村鴈治郎、敬称略・以下同文)は、任侠一門を出自とする立花喜久雄が上方歌舞伎名門の部屋子となり芸道に精進し、紆余曲折を経て希代の女形役者を極めて人間国宝になるまでの50年を描いた物語である。舞踊の素養ないままに限られた期間で歌舞伎役者の演技や所作事を習得し体現した、吉沢亮(喜久雄、花井東一郎)と横浜流星(俊介、花井半弥)両雄の才覚、根性に感服した。上映時間は2時間55分の映像美に溢れた息もつかせぬ長丁場で、徹頭徹尾、展開するのは伝統芸能、歌舞伎一色の世界である。
観劇の場も離れれば、我等素人は歌舞伎とは無縁のありふれた日常に帰る。映画『国宝』に描かれたのは、一般の身過世過とは掛け離れた業界の物語である。しかし観賞後、それが故に日増しに益々深く心に沁みてくるものがあった。
第一の感動は「体が覚えたわざで勝負する人間の凄味と勁さ」である。恵まれた稟賦の上に、その世界に生を受け物心つく前から育まれたもの、あやめもわかぬ年頃から叩き込まれたもの、そして長じて心して学び修練を重ねたもの、これらは決してその身から剥がれ落ちず、誰に奪われることもない。
歌舞伎界で御曹司を差し置き血筋でない弟子が名跡継承することが異例の中、梨園の女将であり俊介の母、花井幸子(寺島しのぶ)の強い反対を押し切り、二代目花井半次郎(渡辺謙)は三代目を喜久雄に襲名させる。以下は二代目の言葉である。
「おまえに一つだけ言うときたいのはな、どんなことがあっても、おまえは芸で勝負するんや。ええか? どんなに悔しい思いしても芸で勝負や。ほんまもんの芸が刀や鉄砲でより強いねん。」(第八章 風狂無頼|吉田修一著「国宝 上 青春編」, p308-309, 朝日新聞出版, 2025)
世阿弥著『風姿花伝』、花伝第七には「家、家にあらず、次ぐをもて家とす。人、人にあらず、知るをもて人とす」(芸の家というものは血統が続くのが家ではない。芸の真髄が続くのが家である。人は人の形をしているから人なのではない。器量があり人の道を悟り得てこそ人である。)の一節がある。映画のパンフレットに記された「その才能が、血筋を凌駕する---。」の“才能”とは、天賦のみならず自家薬籠中の物とした“芸”をも含むのだろう。嫡流であるとも庶流その他の血筋であろうが、後にも先にも量られるのは“次ぐ”に値するだけの力量があるかに尽きる。
第二は「身を賭して眼前の人間と渡り合う覚悟と潔さ」である。喜久雄は世間の規矩準縄を越えて放縦不拘で、決して一点の瑕疵もない品行方正な男ではない。幼い隠し子の綾乃に見せた願掛けは「歌舞伎を上手(うも)うならして下さい。」、「日本一の歌舞伎役者にして下さい」、「その代わり、他のもんはなんもいりませんから」(第十九章 錦鯉|「国宝 下 花道編」, p347)である。芸を極め一流の役者たらんことが第一義で、愚直なまでにその信条を貫き他の事は二の次になる。師匠はじめ数多の業界人、内外の女性陣、一般大衆の観客、そして何よりも俊ぼん・喜久ちゃんと呼び合う生涯の盟友・好敵手である御曹司、三代目澤村田之助と同じ悲劇で逝った俊介に向かい合う姿勢は終生変わることなく、和田東郭が記した“兎角すつと真一文字にでかける”以外の何ものでもない。
「兎角すつと真一文字にでかけるは善き人也。前に障子を立て其内より出つ入つするやうなる気の人は必悪きもの也。(中略) 兎角人は実意深切と云もの第一の事也。是をかたく盡て見る時は即忠也。この忠を立ぬく時は岩をも通す處の力ありと云へし。」(近世漢方医学集集成15 和田東郭『蕉窓雑話』、名著出版, p 554)
現代はコンプライアンスが厳しく問われる時代で、齟齬や軋轢を来しリスクを負う懸念から、他人と深く関わり合う機会回避の傾向に流れるのは必然である。綿菓子の様な言葉「人に優しい」が標語となり、「いいね」がもらえる人間関係が最良とされ、対峙者の体温も体臭も伝わらない距離で臆病に居竦むのが習い性となる。その一方で、匿名という安全圏から(昨今は開示請求あり)から、喜久雄の父、立花権五郎(永瀬正敏)が斃れた凶弾の如き誹謗中傷という飛び道具を放つ。好む相手や好まぬ相手、味方にも敵にも、アウェイにおいても毅然と己が身を晒し、全身全霊で他者と絡み合うことの真価を知らされた感があった。
第三は、「芸の美神に自らを捧げた者だけが至る彼岸の戦慄」である。喜久雄の役者人生に多大な影響を与えた人間国宝の歌舞伎役者、小野川万菊(田中泯)が、九十歳を越えて行き着くのはドヤ街にある安旅館である。原作を読む限り、其処は自ら選び取った終焉の場である。万菊が親しく交流した日雇いの同宿者の一人に吐露した言葉は「-----ここには美しいものが一つもないだろ。妙に落くんだよ。なんだかほっとすんのよ。もういいんだよって。誰かに、やっと言ってもらえたみたいでさ」(第十六章 巨星墜つ|「国宝 下 花道編」, p213)である。美たるものが何もない世界とは、却来の契機を経て還りついた境涯なのだろうか。
映画『国宝』のラストシーンは、「鷺娘」の降りしきる雪の中、喜久雄が長らく探し求め辿り着いた“景色”に落涙する姿で引幕のない終幕を迎える。原作はさらに強烈で、一般人には決して門戸が開かれはしない至純の異界へと続く。美を追い続け美に追われ続けた希代の歌舞伎役者が辿りついた各々の世界は、言うまでもなく我等凡俗が到れる境地ではない。
最後に蛇足の独り言である。
映画『国宝』をもう一度、映画館に観に行く意を新たにしている。