水際の桜 お玉可池故事│尾形月耕「日本花圖繪」明治廿八年
於玉が池 旧名を桜が池と云ふ。今神田松枝町人家の後園に、於玉稲荷と称する小祠あり。里諺に云ふ、於玉が霊を鎮ると。その傍に少しく井の如き形残れり。昔の池の余波なりといへり。里老伝へ云ふ。昔この地は奥州への通路にて、桜樹あまた侍りける所にありし池なる故に、桜が池とよべりとぞ。その傍の桜樹のもとに玉といへる女出で居て、往来の人に茶をすゝむ。容色大かたならざりければ、心とゞめぬ旅人さへ懸想せぬはなかりきとなん。中頃、人がらも品形もおなじさまなる男二人まで、かの女に心を通はせける。されば切なる方にと思へどもいづれおとりまさりもあらざりければ、我身のうへを思ひあつかひて、女は終にこの池に身を投げてむなしくなりぬ。さながら津の国の求塚の古事に似て、いともあはれなればとて、里民打寄りて、亡骸を池の辺に埋み、しるしにとて柳を植ゑて、記念(かたみ)の柳と号けけると云々。(「新版 江戸名所図会 上巻」, p116)
於玉か池の古事│「江戸名所図会」
昔この所に菟名日少女(ウナイヲトメ)と申す女ありしに、また其の頃、小竹田男子(ササダヲノコ)、血沼の丈夫(チヌノマスラヲ)と申しし者、かの菟名日少女に心をかけ、同じ日の同じ時、わりなき思ひの玉章(タマズサ)を通はす。かの女思ふやう、彼方へ靡かば此方の恨みなるべしと、左右なう靡く事なかりしに、さま/゛\の争ひありし後、あの生田川の鴛鴦を射る、二人の矢先諸共に一つの翼に當りけり。其の時わらは思ふやう、無慙やな、さしも契りは深みどりの水鳥までも我故に、さこそ命も鴛鴦のつがひ去るりぬる哀れさよ。住みわびぬ我が身捨てゝん津の国乃生田の川は名のみなりけりと、これを最期の言葉にて、これを最期の言葉にて、この川波に沈みしを取り上げてこの塚の土中に籠め納めしに、二人の男子この塚に求め来りつゝ、何時まで生田川、流るゝ水に夕汐の、さし違へて空しくなれば、それさへ我が科(トガ)になる身を濟け給へと塚の内に入りにけり。(「求塚」抜粋、7-8頁)
*「日本花図絵 水際の桜・お玉可池故事」は、桜の老樹に始まるくの字構図で配置され、月耕独特の優美な筆致と淡彩で行路の客と茶席の於玉の交歓が描かれている。「江戸名所図会 お玉が池」は、旧名桜が池の由来とともに、この後の於玉の悲劇に心を寄せた里民の哀悼で結ばれる。さながら津の国の求塚の古事に似てと記された能曲「求塚」は、前シテは里女、その正体の後シテは凄惨な堕地獄に苦しむ菟名日少女の亡魂である。菟名日少女の亡き後を追った二人の男の妄執が、犠牲となり鐵鳥と化した鴛鴦が、堕獄の菟名日少女を永遠に責め苛む陰惨な展開が続く。恋路の闇に男が惑い身を滅ぼしたが女の咎なのか。恋慕の鞘当てから男が殺生戒を犯したが女の罪なのか。女がどの男の意にも沿うことなく有情の世から遁去ったが悪行なのか。こはそもわらはがなせる科かや、余儀なくすべての業因を其の身に背負った慟哭が響く。手向け花として、万葉集・巻第九の挽歌<菟原娘子が墓を見る歌一首 幷せて短歌>の反歌二首にある一首を末尾に記しておこう。
葦屋の菟原娘子(うなひをとめ)の奥城を行き来とみれば哭のみし泣かゆ
参考資料:
鈴木棠三, 朝倉治彦校注:「新版 江戸名所図会 上巻」, 角川書店, 1975
廿五世観世元正:観世流大成版「求塚」, 檜書店
青木生子, 井出至, 伊藤博, 清水克彦, 橋本四郎校注:新潮日本古典集成「萬葉集 二」, 新潮社, 1978