花紅柳緑~院長のBLOG

座右の銘「医事は自然に如かず」

会者定離の定めにおもう

御供花をいただく


柴犬まるが旅立ってから早二週間が過ぎた。医院開業の年に拙宅の一員となった愛犬で、いわば糟糠の犬である。彼が残したフード、ペットシートやおむつ類は、動物愛護に携わっておられる団体組織にお納め申し上げ、関係諸兄諸姉の御手を経てお仲間の為に役立てて頂けることとなった。先様からは御丁重な電話やメールを頂戴し、当方こそお使い頂けることがまるの供養になり感謝申し上げている。それでも今なお、日常業務の公から私に帰った時、柴犬走りで駆け回っていた庭や部屋の其処彼処に面影を探している。

心ならずも大切な対象との別れに遭遇した時、これを“受動的喪失”と呼べるなら、みずから何かを棄却するのは“積極的喪失”と言えるかもしれない。先日脈絡なく思い立ち、長らく保持していた運転免許証を自主返納すべく地元警察に伺った。“受動的喪失”に晒された時に、敢えて別の何かの“積極的喪失”を行い心の均衡を保とうとしたのだろうか。医療従事者の当方には病や死を厄や穢れとみる意識は全くなく、手放す事を祓や禊と考えた訳ではない。心の内を探れぬまま、師走の寒風に吹かれながら警察署からの帰路を歩いた。

かつて宋・陶弼「對花有感」の詩意を辿った時、おのが手に握り掴むものにもこぼれ落ちるものにも執着すること莫れ、と記した(「桃紅李白薔薇紫」|其の一「對花有感」:2019/1/20)。執着の煩悩を放下すべしという自戒の一文であったが、これほど行い務めるに難いものがあるだろうか。この身から消すことも捨てることもできない、愛着の身替りとして他物を手放す行為であれば代償行為に過ぎない。此の世で結んだ縁(えにし)の糸は、一端を決して離すまいと握りしめるとも、たとえ相手が同じ心持でいたとしても、いつか来る日に解けて消えゆく。一度生を受けたものに課せられた、会者定離の定めはあまりにも重い。