
〇ペットロスの患者さん
漢方診療の腹診を行っている時、入室時から浮かぬ顔をなさっている理由をぽつりぽつりと患者さんが語り始めた。16歳の愛犬を2週間前に見送ったとの事である。あの時こうした、こうもしてやりたかったと、小声で話し続ける患者さんの眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。飼い主にとってはたかが犬などと見なされる存在ではなく、それ以上のかけがえのない家族の一員である。患者さんは楽しい思い出を呼び起こす中で少しは落ち着かれた御様子で、最後にはお顔に笑みが浮かんだ。
〇犬が教えてくれること
我が家にも本年7歳の雄の柴犬がいる。人間で申せば44歳の中堅クラスだが、犬ではすでにシニアの域である。当方に犬を飼う経験がなければ、冒頭のペットロスに対して、お気の毒ですとお決まりの言葉を返すだけで終わったかもしれない。多くの犬友達と触れあい、飼い主さんとのお付き合いを通じて学んだことは実に多い。言葉を超えたnonverbal communicationが、言葉をかわすよりも遥かに重い意味を持つのではないかと痛切に感じたのもその一つである。ある人と初めて出会った犬が、こいつは大丈夫な奴かそうでないかと何を基準に瞬時に判断するのだろう。「嫌な輩ではなさそうだ。警戒をすこし緩めてみるか。それどころかなにか楽しいことがありそうだ。」と感じることが出来ない相手なら、決して犬は心を開いてくれない。
〇言語を超えたコミュニケーションの大切さ
幼い患者さんとペットを同列に考える非礼を承知の上で敢えて述べるが、ともに大人の言葉や理屈などは通じない。いかにくつろいでもらえるオーラを醸し出せるか、求められる非言語的なコミュニケーションの取り方を考えれば、両者に対峙する状況に何ら違いはない。其処で量られるのは隠しようのない裸形の本領である。そして大人の患者さんに対してもそれは同じである。言葉を尽くしたインフォームドコンセントの重要性は今更言うまでもない。その一方で、大人に対しては言葉を繰り出せるだけに、ともすれば非言語的な働きかけが軽視されがちである。“I’m on your side.”という言葉なきメッセージが広がる空間であると感じて頂けるか。それなくして実り多い診療のスタートを切ることは到底不可能と思えてならない。
(上記は「犬から学んだこと」の原題で、京都府保険事業協同組合の2015年度会報に御掲載頂いたエッセイです。)
末尾になりますが、当家の柴犬まるは17年間の犬生を力一杯全うし、本年12月5日未明にお空に旅立ちました。賢くて穏やかで、お人にもお仲間にも心優しい漢の犬でした。生前の御厚情に深く感謝し、愛しんでくださった皆々様に心から御礼申し上げます。有難うございました。