
『古今和歌集』の仮名序」に「在原業平は、その心余りて、詞(ことば)たらず。しぼめる花の色なくして匂ひ残れるがごとし」の一節がある。恐れ多くも紀貫之御大に異議を申し立てる気など毛頭ないが、思いがありすぎて歌の表現が不十分との厳しい評価は、在原業平推しの身にはいささか不満が残る。ところで「萎める花の色なくして匂ひ残れるがごとし」の有り様は、むしろ誉め言葉ではないかと秘かに考えている。
かつて流派の華展に枯蓮のみを生けた盛花の出瓶があった。枯れ萎み廃れた花材を用いた生け花は、一般には常道から外れた花である。会場で作品を拝して脳裏に広がったのは、夏のひと時、緑葉の間から伸びた蕾が一陣の涼風に揺れて花開く蓮池の情景であった。水盤上の花材からは蓮の花色も香も失せている。だが其処には確かに、枯れ果てた蓮から立ち昇る、過ぎ去った季節の余韻とやがて巡り来る季節の予兆を伝える“匂ひ”があった。
「冬山惨淡而如睡」(冬山は惨淡として眠るが如く)の冬は、「秋山は明浄にして粧うが如く」の秋を受け取り、そして「春山は澹冶にして笑うが如く」の春に、「夏山は蒼翠にして滴るが如く」の夏に繋がりゆく。色とりどりに咲き瑞々しく伸長した花木ならば、如何様に挿すともそれなりの生け花になる。一方、この天地を貫く生長収蔵、生々流転のダイナミズムを具現し、九相図の焼相の中から新たに芽生える命を予感させる、“終焉の花”を挿すことは決して容易ではない。生きとし生けるものの最期を露わに見せるだけならば、松尾芭蕉の至言「謂應せて何か有」(いひおほせて何かある)の生け花に終わるだろう。私にはいまだ“終焉の花”を生けてみせる程の力量はない。
参考資料:
小沢正夫, 松田成穂校注・訳:新編日本古典文学全集「古今和歌集」, 小学館, 2015
張瓊元編:「林泉高致」, 黄山書社, 2016
潁原退蔵校訂:「去来抄・三冊子・旅寝論」, 岩波書店, 1966
田代華編:「黄帝内経素問」, 人民衛生出版社, 2005