
八月二日 丙申 参河守範頼、起請文を書きて、将軍に献ぜらる。これ反逆を企つるの由、聞こしめし及ぶによつて、御尋ねの故なり。その状に云はく、
敬みて立て申す
起請文の事。
右御代官として、たびたび戦場に向かひをはんぬ。朝敵を平らげ、愚忠を盡してより以降、全く貮(ふたごころ)なし。御子孫の将来たりといへども、またもつて貞節を存ずべきものなり。かつはまた御疑ひなく御意に叶ふの候、具に先々の厳札に見えたり。秘して箱底に蓄ふ。しかるに今さら誤たずして、この御疑ひに預ること、不便の次第なり。所詮当時といひ後代といひ、不忠を挿むべからず。早くこの趣をもつて、子孫に誡めおくべきものなり。萬が一にもこの文に違犯せしめば、上は梵帝釈、下界は伊勢・春日・加茂、別して氏神正八幡大菩薩等の神罰を源範頼が身に蒙るべきなり。よつて謹慎してもつて起請文件のごとし。
建久四年八月 日 参河守源範頼
(「全譯 吾妻鏡 第二巻」、p285-286)
蒲桜に関連し範頼公の切々たる起請文を挙げた。源頼朝公は源範頼と源を称するは甚だ過分なりと起請文の非を断じる。この意を伝えられた使者の大夫属重能は、範頼公が故左馬頭殿(源義朝)の御子息で御舎弟の儀を頼朝公が御存じであること、先の平氏征伐時に舎弟範頼をもつて西海の追討使に使はすと御奉文なさったことを申し上げた。頼朝公は仰せなくこれを黙殺、事の次第を知った範頼は周章したとある。腰越状を綴った義経公を鑑みれば、範頼公も同じく過酷な運命をと思わざるを得ない。我こそ源氏の嫡流という揺ぎ無い旗印の下、其処には臣下の傍系に対する心底舎弟という思いも毛筋ほどの骨肉之親もない。
そして先に<敵国滅びては即ち謀臣滅ぶ│「韓非子>(2024/11/28)を記したが、『史記』淮陰侯列伝にも「狡兔死、走狗烹、飛鳥尽、良弓藏、敵国破、謀臣亡」(狡兎死して走狗煮らる、高鳥尽きて良弓蔵せらる、敵国敗れて謀臣亡ぶ)がある。組織集団の中での立ち位置、果たすべき役割は時々刻々変遷する。それを履き違え時宜を逸せば峻厳な裁断が下り、かつて功あるとももはや無用、更には有害と切り捨てるのが修羅界の慣わしである。
参考文献:
貴志正造編:「全譯 吾妻鏡 第二巻」、新人物往来社, 1976
小川環樹, 今鷹真, 福島吉彦訳:「史記列伝(三)」, 岩波書店, 2016
竹内照夫著:新釈漢文大系「韓非子 下」, 明治書院, 1977
楠山春樹著:新釈漢文大系「淮南子 下」, 明治書院, 2010