
冬の言葉 高村光太郎
冬が又来て天と地とを清楚にする。
冬が洗ひ出すのは万物の木地。
天はやっぱり高く遠く
樹木は思ひきつて潔らかだ。
虫は生殖を終へて平気で死に、
霜がおりれば草が枯れる。
この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
冬はいきなり蹂躪する。
冬は凩の喇叭を吹いて宣言する、
人間手製の価値をすてよと。
君等のいぢらしい誇をすてよ、
君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。
冬が又来て天と地とを清楚にする。
冬が求めるのは万物の木地。
冬は鉄碪を打って又叫ぶ、
一生を棒にふつて人生に関与せよと。
骨太で気迫に満ちた檄文である。厳寒を耐え忍び、息を凝らして潜んでいよと我々に命ずるのが冬なのか。然にあらず、冬が求めるのは、冬が洗い出すのは、「万物の木地」であるのだと高村光太郎は喝破する。そして随筆《触覚の世界》の中で以下のように語っている。彫刻家においては、「動かし難いものを根源に探る触覚が、一番はじめに働き出す。」のだと。
「世上で人が人を見る時、多くの場合、その閲歴を、その勲章を、その業績を、その才能を、その思想を、その主張を、その道徳を、その気質、又はその性格を見る。
彫刻家はそういうものを一先ず取り去る。奪い得るものは最後のものまでも奪い取る。そのあとに残るものをつかもうとする。其処まで突きとめないうちは、君を君だと思わないのである。
人間の最後に残るもの、どうしても取り去る事の出来ないもの、外側からは手のつけられないもの、当人自身でも左右し得ぬもの、中から育つより外仕方の無いもの、従って縦横無礙なもの、何にも無くして実存するもの、この名状し難い人間の裸を彫刻家は観破したがるのである。」
万物の木地とは人智を超えた実存である。それを取り巻く外殻は、人間を人間たらしめる本質などではなく、「人間手製の価値」や「いぢらしい誇」にすぎぬと《冬の詩》は断じる。人為で制御出来ない森羅万象の木地を否定し、嫌悪し、畏怖する者の眼には、醜悪な裸体の塊としか映らないが故に、ロカンタンは肝気横逆し、胃気上逆させて嘔吐するしかないのだろう。全てを取り去った裸形を観破する姿勢は同じくとも、真髄を何処に見出したかという点に於いて、《冬の詩》と《嘔吐》の志向は全く異なる。
最後に記すのは、高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』からのロダンの言葉である。
「自然をして君達の唯一の神たらしめよ。彼に絶対の信を持て。彼が決して醜でない事を確信せよ。そして君達の野心を制して彼に忠実であれ。」