
ヴァレーのカトラン リルケ 山崎栄治訳
きみに見えるか、あの高いところ、かぐろい樅林のあいだあいだに
天使たちのあの放牧地が?
異様なひかりにつつまれて、ほとんど天上的で、
それは遠い以上のものに思われる。
それにしても、あかるい谿谷にみちあふれ、そして山巓にまで達する
なんたる空中のたから!
あの空気のなかにただようすべてのもの、照り映えるすべてのものが、
きみの葡萄酒のなかに沁み込むのだ。
ひとの好みは年とともにかわる。自分の中で色褪せ衰えゆくものと呼応する様に思えて、かつて好きであった秋が苦手になった年頃があった。ヴェルレーヌの「げにわれはうらぶれてここかしこ、さだめなくとび散らふ落ち葉かな」は、凋落の秋がひたぶるに身に沁みすぎた。耿湋の「古道少人行、秋風動禾黍(行く人とていない古道には禾黍が秋風にそよぐのみ。)」も、悲秋の憂いが肉の落ちてきた肩にはやたら重い。漢方的に申せば、若い頃には溢れるものを引き締める収斂薬として、秋という方剤が実に有効に働いていたのであろう。
ところが時節の風を感じながら二十四節気の養生を折々に記してゆく中で、いつしか以前の様な秋嫌いではなくなってきた。言うまでもなく一年の後には翌年の節気がまた訪れてくる。そして少しもぶれることのない大自然の循環というものを実感した。そういえば小学校の休み時間に、回旋する長い縄を順繰りに飛び越えてゆく長縄跳びで遊んだものだ。昔から鈍臭い私は縄に足をよくひっかけた。廻りゆく長縄のなかに入ったからには、むこうに抜けて行くまで此処で力の限り跳ぶのみである。